第1回 人 間 の 習 性 と 心

人 生 観 ボ ッ ク ス

四 方 山 仙 客

第一章 人間の習性と本能

 戦後の日本において、道徳教育や修身が、米軍やリベラル派の主張でなくなりました。
 それで、当時の教育者の多くは「日本には国民的な宗教もないし、若者に社会規範や道徳を教える手段が無くなるので、これからの若者は、苦労しなければならないだろう」と言って大いに心配をしたものです。
 案の定、日本の若者はそうした環境の中で、自分自身が試行錯誤して人生観を築いて来なければなりませんでした。そして、それでも日本人は明るく立派に成長してきたと思いますが、現在の日本で生じているいろいろな社会現象を見ても、やはり若者が苦労し悩んでいる様子が見て取れます。
 しかし、自分で体験し、考え、悩み、人生観を築いてゆくことは決して悪いことではなく、むしろ宗教や道徳教員に導かれるよりも、自然であり、本物であるとも言えます。
 自分で人生観を築くために必要なことは、自分の身の回りの現実を知り、理解し、そして自分で考えようとすることが重要であります。人間の日常生活をコントロールしているのは、人間の本能や習性、そして寿命や疾病などを含む広い意味での生理現象でありますが、その中でも人間のみに最も影響しているのは  人間の習性であると言えます。本能や広い意味での生理現象は、あらゆる動物に共通の現象でありますが、人間の習性は人間特有のものであって、人間の日常生活に大きな影響を与えています。従って、人間自身の習性を知ることによって人間がどのように生きているのか、どのように生きて行けば幸福に生きることができるのかを知る手掛かりになるでしょう。
 本書が自ら人生観を考えようとする人の参考になればありがたいし、また、多くの人々の、反論や異論、そして、新しい人生観やいろいろな思想を加えてもらって、より充実した実践的に人々の役に立つ内容になればそれ以上の喜びはありません。
 本書は、人生哲学の分野に属する著述ではありますが、哲学というような難しい考え方ではなく、ごく身近な日常生活の中から、人間が最も影響を受けている、人間の習性や本能、そして心を中心に考えてみたいと思います。

 

第一話 人 間 の 習 性-

  • 【総論】人間は習性を超えて生きられない

 人間の習性は、何百万年と言う長い自然淘汰の歴史の中で人間特有のものとして培われて、遺伝子に組み込まれて来たものであり、その習性が人間に他の動物を寄せ付けない力と繁栄をもたらす原動力となったことは言うまでもありません。
 われわれは、人間以外の動物(一般動物)の習性についてはよく研究していますが、肝心の人間の習性についてはあまり考えることがないように思います。
 習性とは、その種の動物が、最も楽に生きて行ける方法として身に着けたものでありますから、その習性から完全に離脱して生きてゆくことはできないし、多少外れても苦労して生きなければならないことになります。それは、草食集団動物が集団から離れると捕食動物に捕獲されやすいのと似ています。
 習性は、遺伝子に組み込まれており、全ての人間に共通でありますが、本能(性欲)の様に、全ての人に全く同じように現れるのではなく、その人の生まれた環境に学んで発揮され、そこに適応するために、人によって幾分違った形で現れます。従って、中には、子供を育てられない母親や、妻子を守り切れない父親が出現するのです。
 ここでは、人間の習性が、人間の生活にどのように関わっているかを様々な角度から考え見たいと思います。

 

  • 人間の習性と社会組織

 人間は基本的に集団動物としての習性を持っていますので、集団生活を営むのですが、人間が集団を形成する過程は、人間以外の動物(一般動物)と基本的に異なるところが二つあります。
 ①一つは、人間社会は、それぞれ異なった目的を持つ集団組織によって分業されており、それぞれの人がどの組織に所属するかは、その人が自分の能力を発揮できると思う組織を選んで所属します。
 これに対し、一般動物のうち、集団を形成する草食動物は、捕食動物から身を守るために、集団の中心に入ろうとする習性によって集団を形成します。また捕食動物の多くは、チームワークによって捕食するために集団組織を作ります。つまり、天敵を持たない人間は精神的な自己中心欲によって組織を作り、一般動物は物理的な自己中心欲によって集団組織を作ると言えます。従って一般動物は人間の様に分業をしません。
 アリやハチは、あたかも分業している様に見えますが、これは、同じ親から生まれて、同じ遺伝子を持った個体が、あたかも動物体内の細胞が分化して出来る内臓のように分担しているのであって、人間の分業とは異なります。

 この、自分が組織の中心になろうとする自己中心欲は遺伝子に組み込まれた習性であり、老若男女を問わず、活発な人もおとなしい人も全ての人間がその人なりに持つ基本的欲求であって、この自己中心欲がなければ集団が形成されず、人間社会が崩壊すると言えます。
 そしてこの自己中心欲が、残忍な人間の本性を現して、戦争や革命、虐待やいじめなど、縄張り争いのもととなるのです。つまり、集団組織が形成されると集団同士の勢力争いが始まるのです。
 武力や財力を持つものは限りなくその自己中心欲を増長させて弱い集団を支配しようとします。しかし、自己中心欲はあらゆる人が持っているので、驕り(おごり)が過ぎると民衆の怒りを買って革命が起こり、「おごる者は久しからず」で、やがては滅ぼされることとなり、同じことが繰り返されるのが世の常であります。

 ②二つ目は、人間社会が家族を単位として構成されていることです。
 円満な家族は、女(妻)の母性愛を根底として、男(夫)の妻子を命がけで守るボス的家族愛によって成り立っています。そしてその円満な家族が分業の人間社会を支えているのです。
 つまり、母性愛とボス的家族愛という習性が正しく備わった男女が夫婦になれば、円満な家族ができるのです。しかし、生まれた環境によって習性が正しく発揮されないときは、円満な家族を作ることが難しくなります。

 一般動物には、つがいで一生を過ごすものもありますが、つがい(夫婦)が家族の最小単ですから、このような一般動物は一生家族を持つことになり、また、子供ができると立派な家族でありますが、一般動物の子供は、巣立ちをすると親から離れ、二度と親の元へは戻らず、人間の様に、超世代家族を持つ動物はありません。
 人間は超世代家族を形成し、近所付き合いをし、地域社会、更に国へと広がってゆきます。
 また、人間の家族は、妻の母性愛が文字通り家族の母体となっており、妻は母性愛で子供を育むだけでなく、その母性愛の延長上で、夫の身の回りの世話をし、夫を一家の主人として称えるのが普通です。その目的は、夫が社会に貢献し、しっかりと稼いで、衣食住を充実させて、妻子を守ってくれるように仕向ける事にあります。一般動物の中には、雌(妻)が雄(夫)の身の回りの世話をする動物はいません。
 人間は、世界中どこの国や民族においても、何らかの形で結婚を祝い、家族ができたことを知らせ、家族の誕生を祝福し、家族が単位となる社会を形成してゆきます。しかし、一般動物には結婚式をするものはありません。
 人間は、企業などの組織に参加して一日の作業や行事などが終わると、家へ戻り、そしてそこに待っている家族がいます。これを見てもわかるように、人間社会は家族が単位になって構成されており、家族によって分業の社会が支えられていることがわかります。一般動物の集団には帰る家も、待っている家族も存在しません。
 つまり円満な家族が企業などの組織の活動を支えており、その組織の存在が家族を守っているのです。だから家族と組織は車の両輪の様に、どちらが倒れてもどちらも成り立たなくなるのです。

  • 人間の習性と家族

 人間の習性における基本原則の一つは、人間社会が家族を単位として構成されていることであります。
 この習性は何百万年と言う自然淘汰の歴史の中で培われ、人間の遺伝子に組み込まれたものであり、人間自身が簡単に壊せるものではありません。もしも人間社会の全ての家族が崩壊すると、人間社会そのものが崩壊し、野生動物と同様の生態系となり、人類滅亡の一途をたどることになるでしょう。

 人間の家族では、妻が夫の身の回りの世話をして夫を社会へ送り出します。そして夫は自分に適した企業や組織を選んで働き、人間独自の分業社会を支えて貢献し、衣食住の糧(かて)を得て家族を守ります。人間以外の動物には、オスの世話をする雌は存在しません。ライオンの集団では雌が確保した餌を、雄が先に食べるようですが、人間の母性愛の延長上で夫の世話をするのと異なります。
 家族の一員が企業などの組織を選んで参加する動機は、自己中心欲と言う習性によって、その集団に入れば自分の能力を発揮できて、高く評価されるであろうという集団組織を選びます。人間の集団組織はこうした家族から始まる習性によって心理的に形成されてゆくのであります。これに対して、集団動物の集団は群れの中に入って身を守ろうとする物理的原理に基づく集団形成であります。
 このように人間の社会は家族の強い絆に支えられて成り立っているのです。だから仕事が終わると家族へ帰ることができ、自分を待っている暖かい家族が存在するのです。

 人間の欲望は限りなく増長するもので、強大な武力や資金を得た者はその力に任せて、他人を支配し、国や世界を支配しようとしますが、それも人間の習性である自己中心欲によるものであります。
 この勢力争いは、人間ほど残忍でないにしても、野生動物も同じで、数に勝る動物集団や力の強い動物が餌場や繁殖のために、縄張りを拡大するのと同じです。
 人間の高度な分業社会を背景に、科学が発達し、強大な兵器が作られて、これを我が物にした支配者は、人間の残忍な性質をむき出しにして、とどまるところを知らず、勢力を拡大しようとします。そうすると国民の反発を受けることは必至で、権力者は国民の反発を恐れ、さらに国民の結束力を弱めようとします。
 そして、権力者は、「子供は社会のものだ」という、わが身勝手な論理の下に国民の結束力の根本である家族を崩壊しようとします。
 このような家族を崩壊し、社会や国全体を独裁しようとする政権は共産主義国家によく見られますが、こうした国では、大半の国民に、暴力による独裁を許さないという根強い反発感情が潜んでいます。こうした反対勢力も人間の習性である自己中心欲によってできるのです。
 権力者は、国民の反対勢力を恐れ、武力に訴えて国民を制圧し、奴隷の様に扱う結果となり、悪循環の波に飲み込まれてゆきます。
 共産主義国であろうと民主主義国であろうと、国民のすべてが自己中心欲を持っていることは同じであり、一部の集団が権力を得て大多数の国民を支配する構図は、いずれの国においても同様であります。民主主義国家は一見平等、公平なように見えますが、一部の政党や権力者がほしいままにしている状況は共産主義国家と変わりありません。

 国民を武力で制圧している国の暴君たちは、自分の家族や妾(めかけ)、そして、不正に蓄えた、小さな国の国家予算レベルの巨額の資金を、安全な外国に避難させていると聞きますが、この行為は、第一に、暴君たちが家族に支えられており、家族が大事であると認識していることを示しており、第二に、これらの暴君たちは、国民が口には出さないが、大多数が根強い反発心を持っていることを認識しており、いつ暗殺され奪われるかもしれないという恐怖にさらされていることを物語っています。
 その他にも、暴君たちは国民の政権への反発をそらせるために、外国と戦争をしたり、侵略や遠征を繰り返して、国民の目を外に向けさせて、群集心理を掻き立て、政権への批判をそらせようとします。これも国民の反発を認識しており、それを恐れているからでありましょう。

 一見悪質な独裁者に見える、専制主義的な国家の暴君(独裁者)も、決して悪人ではなく、むしろ立派な人格者であるはずです。しかし、人間の習性を正しく理解しないために、独裁→反発→武力制圧と言う悪循環に陥り、国民を武力(暴力)で押さえつける悪人となっているのです。
 もしも彼らが家族愛と国民の自己中心欲を尊重した政策をとれば、悪循環から逃れ、状況は一変し、好転するでしょう。
 中国が世界の工場として発展したのは、企業活動において自己中心欲を認め、自由競争に近い制度を取り入れたからであり、好転した一例であると言えるでしょう。中国がここで国民の家族愛を尊重し、家族を豊かにするという政策を取り入れればさらに発展すると思われます。
 その点は、民主主義国家は国民の自己中心欲に基づく政治体制であり、家族を崩壊させることもなく、人間の習性に従った政治体制でありますから、共産主義国家よりも繁栄を見ることができているのです。

  • 人間の習性と宗教

 人間社会では、あらゆる国や民族において何らかの形で宗教が存在しますが、人間以外の動物には宗教はありません。これは人間の習性による人間特有の現象であることを物語っています。
 また、人間と人間以外の動物において大きく異なるもう一つの現象は、人間は自殺しますが、人間以外の動物はどんなに知能の発達した動物でも自殺しないということです。これらの行動の相違は、人間と人間以外の動物の習性の違いによるものであります。
 人間が宗教に入信したり、自殺したりするのはどのような習性によるものでしょうか。それは人間が意識の中で未来と密接に関係して生きていることが原因であります。
 人間は常に、自分自身の未来のことを考えて生きています。未来のことを考えているというよりも、未来の中に常に生きているのです。
 人はよく「先のことはわからない」と言うように、人間は未来のことを全く知ることができないのです。
 その未知の未来は、一億分の一秒先よりもっと目の前から始まっているのですから、人間は常に未来の世界つまり未知の世界に押し出されるようにして生きていることになり、それはあたかも断崖絶壁に立って後ろから押されるような恐怖でもあります。そして、その未知の世界は、人間にとって計り知れない無限の世界でもあるのです。
 従って人間は未知なる未来の無限の世界に常に直面して生きていることになり、未知なる無限の世界ほど不安なものはなく、人間はその不安から救われようとし、安心できる安全な安定した生活を常に願い求めているのですが、それを確保することが自分ではできないので、神仏に頼ろうとします。そして一方、未来に絶望し、全ての苦難から逃れるために、自殺の道を選ぶ人もいるのです。
 精神的に弱い人や不幸に見舞われた人、苦しい境遇にある人ほど未知の世界に対する不安感や恐怖心を強く持ち、宗教に救いを求めたり、自殺の道を選ぶ気持ちがより強くなるのでしょう。

 無限の未来世界には何の制約もなく、なんでも想像することができ、人間の知恵で考え出すことができます。それは、白紙の上に絵を描くようなもので、神様が宇宙を創造したとか、人間を創ったなどと言う神話や宗論も生まれてきても不思議ではありません。人間の本能や習性や寿命なども神様が作り支配していると言うことも言った者勝ちで何とでも言えます。
 人間の幸福を妨げる恐怖として、幽霊や狐狸妖怪、祟(たた)り、呪い(のろい)、因果関係、悪魔等を想像し、その恐怖から逃れるために、魔法や占い、預言、心霊術、運命論、天国地獄等様々な迷信や想像に引かれ、それを信じようとします。賭博や推理小説、童話等に興味を持つのも未知なる未来に対する不安がそうさせるのではないでしょうか。

 それでは、その未知なる未来はどこから生まれたのでしょうか。それは人間の習性によって時間が生まれ、過去、現在、未来ができたからです。
 次に、その時間は人間が約束をするという習慣を身に着けたことから時間が生まれたのです。
 約束には時間が伴います。時間の存在しない約束や契約はありません。「あるとき払いの催促なし」と言う約束にも「時間の取り決めをしない」という時間的約束が存在します。
 そして、その約束は、分業をすることから始まりました。分業することによって、人間は、他の動物を寄せ付けない発達した文化や科学を得たのです。
 野生動物の様に自分で餌を探して食べる習性の動物には他の動物や集団に頼る必要はなく約束することも分業する必要もありません。集団で獲物や餌場を確保する場合でも、一斉に行動し、言葉を交わし、分担はしますが、目的は一つで、分業ではありません。また、アリやハチのように分業ともいうべき分担をして餌の確保や防御、巣作りなどを行っているものもいますが、これらは同じ親から生まれ、同じ遺伝子をもって一つの生体のごとく働くもので、有機体の様な組織で行動しているのです。それは哺乳動物の生体において分化した細胞がそれぞれの内臓として働いているようなものであると言えるでしょう。
 人間は分業することによって約束することが必要になり、時間が生まれたのです。そして科学が進歩し、高度な分業が進むにつれて、約束に必要な時間がより精密になり、日の出、日の入りで始まった約束が、今や業界によっては、秒刻みとなってきたのです。
 この分業を可能にしているのは家族の存在であることを申し添えておきます。【人間の習性と家族を参照】

 要約すると、人間は習性によって、家族を作り→分業社会をつくり→約束する習慣ができ→時間が誕生し(金と共に)→過去、現在、未来ができて→未来に向かって生き→未知なる幻の無限の世界に捕らわれ→不安にさらされ→神仏を求め→宗教が生まれ→宗派ができて→様々な仏や神が、人間の知恵によって考え出されたものであります。
 宗教が人間の習性から生まれたものであるという論理は、宗教家には理解できないでしょうし、否定するでしょう。宇宙を神様が作ったと言われれば誰も何も言えません。
 しかし、それぞれの宗教が、教理、経典や神話を編み出して、異なった論理を主張し、勢力争いを行っていることからも、人間の習性である自己中心欲に基づいて教団ができ、勢力争をしているにすぎず、あらゆる宗教が人間の知恵から生まれたものであることがうかがえます。

 こうして生まれたそれぞれの宗教は、教理、経典によって人々を導き、不安な境遇から人々を救い、道徳を教え、社会秩序を保ち、生きる勇気を与え、人間の幸福を導き出していることは確かで、人間の習性の弱点を補っていることがわかります。
 しかし、中には、家族を崩壊させるような邪教があるようですが、そのような宗教はやがて民衆の力によって崩壊させられるでしょう。それこそが天命つまり、人間の習性の力でしょう。

 また、人間が未来を考えることができることによって、将来に夢や希望を抱き、長期計画や短期計画を立て、目標や目的をもって生きることができ、それを達成して幸福を得る事も出来ます。
 つまり、人間が未来をしっかり見つめて、無限の未来に怯える(おびえる)ことなく王道を歩んでゆけば、自己中心欲が満たされ、幸福を得ることができるのです。
 人間が安心を得るためには、自己中心欲を発揮できる、つまり、自分の能力を発揮できる集団を選んでそこに所属することが必要です。
 自分が過去にも未来にも実在しておらず、「今」しか実在していないことを知るべきです。そして、自分が実在している「今」しか何事も実行できないことを知り、未来の目標に向かって、今実行すればその目標を達成できることを信じて実行を積み重ね、積み重ねた実行が実績となり、実績を積み重ねて成功となるのです。
 従って未来に希望をもって、今実行することが大切であり、将来西へ行こうと思えば、「今」西向くのです。目標に向かって正しく今実行していれば不安を感じることもなく、神仏に頼る必要もなくなり、自殺する必要もありません。
 人間は、家族を中心とする集団動物でありますから、家族が円満であれば最も楽にそして幸福に生きて行くことができるのです。

  • 人間の習性と戦争

 戦争や紛争は、世界各地で常時起こっていますが、それは外見的に、資源や領土の奪い合い、宗教や政権等の権力闘争が原因であるように見えますが、根本的な理由は、人間が集団動物であるという習性と同時に、人間特有の残忍な自己中心欲と言う習性に基づいて行われているのであります。つまり、人間の遺伝子に組み込まれた習性が、そうさせているのです。
 あらゆる動物の中でも、人間とチンパンジーは残忍な闘争を行う動物であると言われていますが、チンパンジーのゲノム(遺伝情報)は人間のゲノムと99%類似していることからも、この残忍さは両者の遺伝子に組み込まれた習性によるものであると言えるでしょう。
 チンパンジーは、自分の血縁を守るために、自分以外の雄が産ませた乳飲み子を母親から奪い取って殺して食べます。母親は、最初は抵抗して子を守ろうとしますが、力に負けてもぎ取られ我が子が殺されるとその子をもぎ取ったオスと共に我が子を食べます。
 人間の場合も戦争で勝利し、支配した領土では、略雑や強姦をすることを手柄のごとく行っており、それが強い証であるかのように振舞っていますが、チンパンジーと人間はやることが似ています。
 チンパンジー以外の類人猿である、ゴリラやボノボは穏やかな性質で争いをしないことで知られており、オランウータンも残忍な争いをするのを見たことがありませんから、これらの類人猿の遺伝子には残忍な闘争をする情報が組み込まれておらず、人間やチンパンジーと異なった習性が身についているのでしょう。
 しかし、オランウータンは交尾の時に雌を痛めつけ、強姦することで知られていますが、人間もオランウータンと同様、強姦をする動物であり、強姦をするのは人間とオランウータンだけであるとも言われており、人間がいかに乱暴な動物であるかがうかがえます。
 人間とチンパンジーは似た習性を持っていますが、大きく違うところは、チンパンジーは血縁で結ばれた集団であるために、所属する集団が最小の集団であり、帰る家も家で待っている家族もいませんが、人間は、家族を単位とした社会集団であるために、仮に軍隊に所属しても、帰る家があり、待っている家族がいるのが普通です。

 一般動物が集団を形成する目的は、餌場の確保が主であり、防衛のためにも集団を形成していますがこれも習性であります。
 虎や熊の様に、集団を作らずに縄張を作り争う動物もいますが、これらも遺伝子に組み込まれた習性によって行動しているのです。
 人間は、習性によって、分業をして、約束する必要が生じ、時間と言う概念が生まれて、過去、現在、未来と言う生活空間に生きており、特に、一般動物には存在しない、未知なる未来の世界に生きなければならなくなったために、常に不安にさらされ、それも手伝って、兵器の開発が加速し、核兵器を持ち、人間の残忍さと、人間特有の自殺心理も手伝って、やがては滅亡するのではないでしょうか。

 人間社会では、各国が常に戦争準備をしており、戦争目的にGPS(全地球測位システム)やミサイル等各種の戦闘技術の開発に余念がなく、こうした戦闘技術の研究が元で科学が発達したのです。
 一般社会生活や工業技術における便利さも戦闘技術による科学の進歩のおかげであると言えます。日常生活に欠かすことのできない、携帯電話やナビゲーションなども戦闘技術、戦争準備の研究から出来たものであり、家庭料理に欠かせない、サランラップも、戦争に使用するための火薬の吸湿を防ぐために開発されたものであります。

 人間が集団動物であると言う習性と残忍な自己中心欲と言う習性を持っている限り集団同士の争い、つまり戦争から免れることはできません。そして強いものが勝利し、縄張りを広げ、勢力を拡大することも避けることはできません。従って負けたくなければ強くなるしかないのです。

 戦時下では、兵隊が殺されても、肉親以外はそれほど問題にしません。これも人間の遺伝子に組み込まれた習性であるからだと言えるでしょう。
 それどころか、兵士以外の一般人が殺人をすれば罰せられますが、戦争で相手を殺せば褒められて勲章をもらいます。日本に原爆を投下したアメリカの元兵士は、現在でもそれを誇りに思っていると言っていましたが、これを誰が非難出来るでしょうか。このような矛盾した人間の行動も、遺伝子に組み込まれている習性であります。
 戦場で殺し合いをして、怪我をした人をボランティアで治療している光景は、誠に人間の矛盾を感じますが、これも人間の習性であり避けることはできないのです。

  • 人間の習性と人種差別

 人種差別とは何でしょうか。辞書での定義によると、人種差別(じんしゅさべつ、英: racial discrimination)とは、人種的偏見 によって、ある固定の人種を差別すること。とあり、また別の定義によると、「差別」とは、偏見や先入観を元に特定の人々に対し不平等な扱いをすることである。つまり、「差別」は認める以前に先入観によって分けられてしまっている状態である。と言うことであります。
 また、人種差別撤廃条約での定義によると、人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨ぐ又は害する目的又は効果を有するもの。とあります。

 要するに、人種差別の根源にあるものは、客観的、公正な理性や常識、法規などの判断基準によらず、偏見や先入観と言う主観的、個人的、感情的な動機によって人を区別していることであるといっているようです。
 しかし、この先入観や偏見と言う主観的な評価は個人が行うものであって、集団や団体が持つものではありません。例えば、自分に危害を与えた人に対する憎しみ、また逆に、熱烈に愛した人への恋心などはまさに主観であり、先入観でありますが、決して集団や団体で持つ感情ではありません。仮に現在差別を受けていると言う人が居ても周囲にいる全ての人が同じ感情でその人を見ているとは限りません。
 また、仮にある国の法律である特定の人種を国外に追放すると言う規則を作ったならば、それは差別と言うよりも迫害であり勢力争い、縄張り争いであると言えます。
 つまり、集団対集団の間で人種差別であると言って社会問題視されている内容は、言わば勢力争いであって、ある特定の集団が別の集団に勢力争いに負けて追いやられているものであります。
 人間と言えども、動物であり、人間以外の野生動物などと基本的に変わりはありません。人間も何百万年と言う自然淘汰の歴史の中で培われてきた、習性によって集団動物として社会を構成しており、その集団社会の法則に従って人間社会が営まれているのです。従って少数の個人的な感情で社会が動いているのではありません。
 そのことは人間と同じ動物である、野生の集団動物の習性を見るとよくわかります。野生の集団動物も人間と同様に、勢力争いをし、えさ場や繁殖をめぐって抗争し、強いものが弱いものを追いやり、縄張りを広げています。
 人種差別を受けていると主張する集団も、強い集団に追いやられている集団なのです。そこには個人的な偏見や先入観が入る余地はありません。

 人間には、自分が集団の中心になろうという、支配欲に似た、自己中心欲が習性として備わっており、遺伝子に組み込まれて身についています。人間はこの自己中心欲によって人が集まり、集団を形成し、そして勢力争いをして縄張りを拡大しようとするのです。だから、残酷な一面を持つ人間は、常に抗争を繰り広げ、武力や財力を持つものが弱者を征服して勢力を拡大します。そして全ての人が自己中心欲を持っているために、盛者もいつかは滅びる時が来るのです。
 人間社会では、集団ができると、宗教団体であれ、スポーツ団体であれ、また、企業においても、集団ができると集団同士の勢力争いが起こります。この勢力争いは人間の習性であり、誰にも止めることはできません。強い方の勢力を止めることができるものはそれ以上に強い勢力のみであります。
 世界各地で行っている抗争や戦争を見ると、片方では銃やミサイルで殺傷し、片方ではそこで負傷した者を治療しており、また、通常の社会では殺人犯は罰せられますが、戦争で相手を殺すと勲章が与えられます。これが万物の霊長たる人間のする事かと思うと、矛盾を感ぜざるを得ません。

 人種差別問題は、陰険なイメージがあり、タブー視されている傾向があって、難解な社会問題とも考えられているようですが、それは偏見や先入観と言う個人の胸中にある主観を社会問題にしているからであります。
 人種差別と言われている現象は、人間の習性に基づいてできた集団同士の勢力争いの結果、その敗者を意味するものであることを知れば、容易に理解できると思います。
 つまり、人種差別を受けていると言う集団は、勢力争いに負けて、弱者となった集団が、巻き返しを図るために、社会の同情を集め、勝者に対する社会的批判を加勢にしている行為であります。
 そもそも人種差別と言う言葉は、いじめを受けていると主張する弱者となった集団自らが発している言動であって、それは、勝者に対する批判を掻き立てるという、一つの戦法、対抗手段であります。それも一つの戦法でしょうが、現在それが裏目に出て、逃れられない卑屈な状態になっており、墓穴を掘った結果となっているような気がします。
 人種差別と言う考え方は、人間の習性ではなく、決して人類を幸福にはしません。だから、人種差別と言う用語を公用語にしてはいけません。

 先入観や偏見によって差別されているという気持ちを持つ限り、強い立場になって逆転することはできません。そして世間や周囲からの同情も遠のき、ひどい場合は反社会的行動になりかねません。
 差別されていると言うジレンマによる悪循環の境遇から脱して、社会的に評価される立場になれば優位に立つことも十分あり得るし、立場が逆転することも十分に考えられます。
 強い集団からの迫害をはねのけて、優位に立っている民族の一例として、ユダヤ民族を見ることができます。

 ユダヤ民族は、エジプト時代の奴隷に端を発すると言われますが、それ以来、1933年のナチスの大量虐殺まで、2000年以上にわたり、多くの迫害を受けてきたことはよく知られていますが、このユダヤ民族がその迫害される境遇を覆し、現在では世界を左右するほどの存在となっています。
 例えば、ビジネスの世界においては、世界最大の金融財閥のロスチャイルド/シェル石油創業者のマーカス・サミュエル/アメリカデパート王のシュトラウス/新聞王のジョセフ・ピューリッツァー/ホテル王のアスター/ダイヤモンド王であるデ・ビアス社の創業者アーネスト・オッペンハイマー/フランス自動車王のアンドレ・シトロエン/イタリアオリベッティ社のカミオ・オリベッティ/その他多くの国に国の経済や軍事に影響を及ぼすようなユダヤ系の富豪が数多く存在します。
 また、科学の分野では、世界のわずか0,2~0,3%前後の人口を占めるユダヤ民族が、ノーベル賞受賞者全体の20%以上を占めているのも素晴らしい業績と言えます。
 ユダヤ民族は、心掛け一つで、縄張り争いに勝ち、迫害を覆し、反撃できることを教えています。ユダヤ民族は人種差別を受けているという観念をもたなかったために、こうした成功を見ることができたのではないでしょうか。人種差別の観念を受入れ、みじめな人間であると自ら卑下すれば、反撃する方法はありません。つまり人種差別は人間の習性から生じることではなく、人間のずるい知恵から生まれた不幸への悪循環であると言えます。
 確かに弱者が一気に財力を持つことは不可能でしょうが、精神力によって強くなることは誰にでもまたいつでもできます。現在人種差別を受けていると主張する人々が、人に感謝され、尊敬されるような行為を行えば、一夜にして社会的評価は変わるでしょう。
 教育の場においても、こうした教育を行うべきではないでしょうか。

  • 夫婦喧嘩は習性のすれ違い

 「夫婦喧嘩は犬も食わん」という諺(ことわざ)がありますが、これは何でも食べる犬も夫婦喧嘩だけは食わないという意味で、夫婦喧嘩は原因もよくわからないし、ほっておいてもすぐに仲良くなるから相手にしない方が良い。という意味でしょう。言わば、仲が良いから喧嘩するのであって、仲裁に入ったら馬鹿を見るといったところでしょう。
 円満な夫婦の関係はお互いに一心同体であることを望んでおり、密着した関係であるために、第三者が関わることを好みません。夫婦がお互いに、相手が自分を理解してくれていると期待しており、それが外れたりして、少しでも距離ができると立腹します。そして双方が感情的になると喧嘩が始まります。
 妻の母性愛は、子供と共に夫にも向けられており、妻は夫の身の回りの世話をします。だから夫は妻がなんでも自分の言うことを聞いてくれるという甘えた気持ちを常に持っており、妻は、夫が常に自分の手元にあって、子供の様に甘えるとともに、妻を大切に思い、妻を命がけで守ってくれる存在であると信じているのです。
 妻が母性愛によってわがままな夫を抱擁する気持ちで接しているときは喧嘩にはなりません。そして夫はその妻の深い愛情に感謝する気持ちで、妻子を守っていれば家庭は円満です。
 夫は妻に苦情を言われたり、注意されたりすると、案外他人に言われるよりもこたえるものです。だから逆に些細(ささい)なことで感情的に反発することもあります。妻が夫に子供にものを言うような気持ちでお願いしたり、注意すると案外効くものです。夫に対する妻の母性愛は夫婦の関係を周囲から見えないものにしています。
 人間は集団動物であり、一人では何もできません。言わば、そこに居ることは間違いないが見えない点(位置があって大きさのないもの)のような存在で、夫婦はその点が二つ繋がった線(長さがあって太さのないもの)のようなもので、太さがないから夫婦の関係は周囲からは見えない存在なのであります。また、そうでなければ円満な家庭を保つことはできません。
 ある日の新聞記事に、妻がビールを冷やしていなかったという些細なことから夫婦喧嘩となり、夫の暴力で殺人事件となったという報道がありましたが、この時、もしも妻が子供の哺乳瓶でも用意するつもりでビールを冷やしておいてやるか、夫の妻への甘えた気持ちを理解して、ごめんねと言ってやれば事件にならなったかもしれません。
 この事件の場合、勝手に想像するならば、妻も疲れているか、虫の居所が悪かったのかもしれませんが、妻の夫に対する母性愛を妻が意識していれば、夫のわがままを理解できたかもしれません。夫婦円満の縁(えん)の下の力持ちは、妻の母性愛にあると言えるかもしれません。この事件では夫は限りなく後悔していることと思われます。
 また、別の事件では、妻が何かの拍子に夫に対して「あなたにカイショがないからだ」と言ってこれも夫の暴力で殺人事件となったそうですが、夫は妻に頼もしく思われ信頼されたいと思っていたのでしょうが、自分の弱点を激しく非難されたために、自分の不甲斐なさが逆に妻への反感となって暴力をふるったのでしょう。また妻としては、夫を非難すれば夫は奮起してくれると思ったのかもしれません。どちらにしてもお互いに憎しみから喧嘩したのではなく、お互いに相手に強く抱いていた期待が裏目に出て激しく衝突する結果になったのではないかとも考えられます。夫がボス的家族愛によって、妻子を守るためには何といっても夫の経済力がものを言うことを証明する事件であると言えましょう。
 夫婦喧嘩の多くはお互いに期待するがゆえに生じていることが多いのではないかと思います。
 夫婦喧嘩の多くは、妻の母性愛に基づく夫への対応が不足しているか、夫のボス的家族愛つまり経済力や帰属感、責任感が不足しているか、によって生じることが多く、夫婦共に母性愛とボス的家族愛が重要であることを知れば激しい喧嘩を避けられるかもしれません。

  • 離婚は習性の不備

 最近の日本における離婚率はほとんどの都道府県で30%を超えており、離婚理由としては、①性格の不一致、②夫の経済力不足、③虐待、④異性関係といった順番であるようですが、性格の不一致という理由は非常に曖昧(あいまい)であるために、それだけでは法的にも離婚理由として認められないことになっています。従って、性格の不一致と言う離婚理由は、むしろ「その他いろいろ」と言った分類になるように思います。すると、離婚理由の順位は、①夫の経済力不足、②虐待、③異性関係、④その他いろいろ、といった順番になります。
 こうした離婚理由は、人間の習性である家族形成に必要な基本条件である、妻の母性愛と夫のボス的家族愛のどちらかまたは双方に欠陥があるからではないでしょうか。
 それは、上記離婚理由の、①夫の経済力不足は夫の家族を守る力に不足があり、②虐待についても、精神異常者でない限り、夫の家族を守り切れない、経済力不足からジレンマが生じると言えるでしょう。また、異性関係は、女の場合は、母親としての母性愛が備わっていれば簡単に家族を捨てることはできないでしょうし、夫が原因であれば、家族を命がけで守るという、男に備わっているはずの習性である、ボス的家族愛が欠如していることが原因であると考えられます。つまり、一般的な離婚の原因は、全て人間の習性の不備によるものであると言えます。

 こうした離婚原因となる要素(習性の不備)が相手に存在することが結婚前に分かっていれば離婚することはないのでしょうが、どうしてわからなかったのか不思議に思うかもしれません。
 それは、本能の世界(性欲の世界)と習性の世界(家族の世界)は別世界であり、男女が本能で引き寄せられるときは、理性が働かず、闇の世界にさまよい、判断力を失った状態となり、仮に疑問を持ったとしても、理性が働かず、逆に理性が弁解者になってしまうのです。本能から覚めて習性の世界、つまり家族形成の段階に入って、客観的、現実的に相手を見ることができるようになった時は、既にサイは投げられているのです。
 しかし、当事者が習性の備わった両親や環境のもとで育ち、習性を正しく身に着ける学習をしていれば、家族の重要さを身をもって認識しており、そのために必要な相手を選ぶことができるでしょう。

 中国の古代哲学に陰陽論という考え方がありますが、これは陰陽合体、陰陽対極のバランスによって万物が成り立っているというものですが、その代表的な例として、電流の-と+は陰陽であり、人間の女と男も陰と陽であるとされています。
 一般に主役が陽であり、わき役が陰でるとされています。夫婦では、夫が主役の陽であり、妻が脇役の陰であるとされています。確かに妻は夫を立てて「主人」と呼び、妻が守りの立場であり、わき役となっているのが普通です。
 陽が主であり、陰が従であるとされていますが、電流が-(陰)から+(陽)へ流れていることを考えると陰から始まって陽が陰に追従していると言えます。夫婦間においても、陰である妻から始まり、陽である夫を動かしていると言えます。だから昔から、「雌鶏教えて、雄鶏時を告げる」とか、「亭主は妻に手綱を握られている」「夫が妻の尻に敷かれている」等と言われているのではないでしょうか。

 男女が結ばれるときは、男から女に接近して口説き落とすように見えますが、実は、女が無意識のうちに発散する包み隠せない色気によって多くの男を引き寄せ、その中から女の選択権によって選ばれたものが結ばれるのです。
 女の選択基準は、人によってさまざまですが、一般的には、習性である母性愛によって、子供が生まれたときに妻子を命がけで守ってくれる男であるかどうかを判断基準とします。

 本能(性欲)で結ばれ夢中になる期間は、2年から4年程度で、まずこの期間に子供が生まれ、種の保存のための第一段階の目的を達成するのが普通です。そして次に必要なのは、人間特有の習性に基づく家族作りであり、長い人生を共に過ごさなければなりません。
 ところが運悪く、上記のような離婚原因が暴露してくると、陰陽の引き寄せる極が反転して反発し離婚に至るのです。
 また、先進国では、科学や武器の発達そして人口の増加が手伝って、男の力(戦力や開拓力)の必要性が低下します。そして、女が自由の身となると同時に経済力を持ち、ますます女が男に頼る必要がなくなります。こうして現代の男は弱くなったのです。

 しかし、いつの時代においても、妻が子育てをする期間は無防備であり、特に人間の子育て期間は長く妻は弱い立場に置かれますから、どうしても夫の精神的、経済的力を必要とします。
 夫に経済力と妻子を思う心があれば、妻は夫を頼りとし、夫もそれに満足して妻子を命がけで守ります。
 妻子を捨てて次から次へと相手の女を変える男がたまにいますが、このような男は、過保護に育てられ、わがままに育った、わが身勝手な男に多いように思われます。また、女で身持ちの悪い者は、生まれた環境や育った過程で恵まれた家庭教育を受けなかったために習性が正しく発揮されなかったのでしょうが、女性に起因して離婚する例は比較的少ないのではないでしょうか。仮に離婚する場合でも、多くの場合子供を妻が引き取ることが多いようですが、これも母性愛の表れででしょう。

 人間の母性愛やボス的家族愛と言う習性は遺伝子に組み込まれてはいますが、生まれた環境や育った過程によって学習し、環境に適合した形で現れますので必ずしも皆同じではありません。従ってまず自分が正しい習性を身に着けることが大切です。
 最近は一人で生活する方が気楽だと言って、一人暮らしを称賛するものもいて、一人暮らしや独身人生を喜んでいる傾向があるように見えますが、それは円満な家族を知らないからであるか、円満な家族を持つことが不可能であると諦めているからでありましょう。
 なんといっても妻の母性愛と夫のボス的家族愛に満たされた円満な愛に満ちた家族生活を営む家族に勝る幸福はありません。

 これから結婚しようとする人は、女は自分自身がしっかりした母性愛を持つことが大切です。しっかりした母性愛が子育ての大変さを予知して教えてくれますから、それが相手を見抜く力となります。いきなり深い付き合いをせず、距離を置いて客観的に離れたところからしっかり観察して近付くことが必要だと思います。男が女に金を貸してほしいとか、カードを貸してほしいなどと言う時は、見込みがないと思った方が良いでしょう。

 離婚理由の多くは夫の経済力不足にあるようですが、経済力を持つためには、分業が高度に発達した人間社会においては、仕事に精進し、その道のプロになることが必要でしょう。遊びを優先して仕事をおろそかにしている男は必ずグリム童話のキリギリスの様に行き詰まり、妻子から見放される結末となるのです。このようなキリギリス男は若いときから遊び癖や怠け癖があり、年をとっても変わらないようです。昔から「若いうちの苦労は買ってでもしろ」という諺がありますが、勤勉な男は若いころから勤勉です。
 外見だけにとらわれたり、甘い言葉に騙されたりすると女は一生苦労しなければならないかもしれません。
 離婚原因の多くは男に責任がるように言われることが多いようですが、必ずしもそうではなく、離婚原因が、母性愛の正しく備わっていない女にあることも見受けることがあります。

第二話 本 能 の 世 界

  • 【総論】人間の本能は野生動物と同じ

 本能の定義として、最も的を射ていると思われる、アリアム・ウエブスター辞典によれば、「本能とは、判断を伴わず、環境の刺激によって引き起こされる個体の複雑な反応で、遺伝的で変更がきかない行動」とあります。
 ところが学術界では、上記のような定義にズバリ当てはめて説明のできる行動は動物界に見られないとして、本能と言う用語を使用しなくなりました。つまり、本能と言う現象は、全ての動物界において、上記の定義の様に普遍的に同じ行動を示すものであるべきだが、ほとんどの場合、動物の種によって、また時と場合によって異なった形で現れるため、定義のような本能は動物界に存在しないと言うものでありましょう。
 本能の定義にはいろいろありますが、中には「本能とは、動物個体が、学習・条件反射や経験によらず、生得的にもつ行動様式。帰巣本能・生殖本能・防御本能などをいう。」とするものがあります。
 この定義によれば、帰巣本能・生殖本能・防御本能が全て本能として例示されていますが、問題は、この例示されている三つの本能をよく見ると、本質的に異なった行動であることがわかります。本定義の本分及び、アリアム・ウエブスター辞典の定義に当てはまる本能は、この三つの中では生殖本能のみであると言うことです。
 なぜならば、生殖本能つまり性欲はあらゆる動物において共通でありますが、帰巣本能や闘争本能と言われている行動は、普遍的でなく、本能の定義に当てはまらないからであります。例えば、帰巣本能【本当は帰巣習性】は、ハトやコウノトリに代表される行動ですが、多くの野鳥の様に決まった巣を持たない鳥類もあれば、オランウータンの様に毎晩巣を作る動物もいるなど、帰巣本能は動物によって行動が異なり、全ての動物において普遍的な行動ではありません。また防衛本能にしても、動物の種によって身の守り方が異なり、全ての動物が同じ行動をするものでもありません。つまり、帰巣本能や防衛本能は、動物の種によって、また、時と場合によって行動が異なるので、本能ではなく、習性に属する行動であります。また、説の中には、食欲や睡眠欲を本能としている考え方もあるようですが、これらは本能ではなく、広い意味での生理現象であります。
 学術界では真の本能である行動と、本能に属さない行動を混同しているために、混乱が生じていると言えます。

 われわれは、動物には、次の3つの生得的な行動体系があり、それらが全ての動物の一生をコントロールしていると考えています。
 その一つは、人間を含むあらゆる動物に共通な「本能」と、次は、全ての動物がほぼ同様であるが、種によって多少異なる、広い意味での「生理現象」、そして、動物の種によって千差万別の生得的行動を営むとともに、生まれた環境に適応するために学習し、同じ動物であっても、幾分異なった行動を表す「習性」であります。この3つの条件によって全ての動物は一生コントロールされて生きているのです。
 上記のうち、アリアム・ウエブスター辞典の定義に当てはまる「本能」は、生殖本能であります。
 生殖本能つまり性欲は、人間を含むすべての動物に共通である、種の保存、子孫繁栄を目的に欠かすことのできない普遍的な行動であり、変更が効かないほど強い力を持って現れます。
 その強さは、聖職者の性的事件や、昔から「犯罪の陰に女(異性)あり」という言葉からもうかがうことができます。性欲は異性の性的魅力や刺激を性器や腹部そして全身で感じ取り、情報を脳に送って行動に移すものでしょうが、それはまさに「本能とは、判断を伴わず、環境の刺激によって引き起こされる個体の複雑な反応で、遺伝的で変更がきかない行動」であります。
 同性愛などの性欲の目的である種の保存に適さない形で現れることもありますが、その根本となっている性欲は本能から外れるものではありません。
 この章では本能つまり性欲の人間に及ぼす影響について考えてゆきましょう。

  • 男と女の独占欲

 男女がお互いに相手を必要とするのは、本能による種の保存、子孫繁栄を目的とする、性欲によるものです。この欲望がないと、人類が滅亡します。従ってこの本能による欲望は非常に強いもので、全ての動物が同様に備えています。
 男は自分の子孫を残したいという本能によって、自分の子供を産んでくれる女を探し求めます。そして女は子供を産みたいという本能に基づいて子供を授(さず)けてくれる男を求めます。
 従って、産ませたい男と産みたい女ですから、期が熟せば簡単に結びつきます。その相手は自分の理想の人であるとは言うものの、案外近くで間に合わせることが多く、誰でもよいのかもしれません。

 女は全身から発散する包み隠せない色気(性欲)によって男を自分の周囲に引き寄せます。そして、その中から自分を命がけで欲している、好みの男を選びます。そして、男は自分が近付いた女が気に入ってくれれば結ばれます。男女が結ばれる時は、お互いの心で引き合うのではありますが、女に選択権があるようです。
 それは、女が子供を産んで、その子を育てなければならず、子供を抱えた女は最も無防備で弱い境遇にあるために、その時、妻子を命がけで守ってくれる頼りになる、家族のボスに相応しい男を選ぶのです。
 人間の場合は、子供が乳離れするのは、生後18年以上ですから大変です。そしてさらに、90歳まで共に生活し、お互いに独占してゆかねばなりませんから、慎重に相手を選ばないといけません。

 長い夫婦生活に必要なものは、真の愛情であります。愛という言葉は色々なところで使われていますが、ほとんどは真の愛ではなく、単なる欲望であります。例えば、恋愛や愛社心、愛国心などは自分のために表している言葉で、言わば自分に都合の良い言葉にすぎません。
 真の愛情とは、自分のために生きている人間が、他人のために行為を行って自分の事の様に喜べることであります。それは子供に命を懸ける女の母性愛と妻子を命がけで守る男のボス的家族愛であります。
 この二つの真の愛が習性として正しく身についており発揮できれば、夫婦は立派に子供を育て長い人生を夫婦円満にお互いに独占して過ごすことができます。
 これらの真の愛情は人間だけでなく、人間以外の動物にも見られます。メスは我が子を命がけで守り、群れのボスであるオスは、命を懸けて群れを守ります。
 ハイエナなどの様に雌がボスとなる群れもありますが、習性は本能の様に全ての動物において一様ではない例の一つと言えるでしょう。

 問題はこれらの習性が正しく身についているかどうかです。習性はみな同様に遺伝子に組み込まれているのですが、生まれた環境に適合するために、学習し、異なった形で現れるために、全てが正しく現れるとは限りません。母性愛やボス的家族愛が備わっていないときは、我が子を見捨てたり、家族から離れたりすることになります。

 円満な家族を作るためには相手を一生独占できるかどうかにかかわります。従って相手を一生独占できるかどうかを見極めなければなりません。相手の習性を見誤らないで選ぶ第一の条件は、選ぶ方の自分自身が正しい習性を身に付けているかどうかです。自分の中に正しい習性が備わっていれば、相手の習性のあり方を見抜くことができます。自分に習性が正しく身についていないときは同じような相手を選ぶことになるでしょう。
 習性が正しく身についていない事例は、女よりも男の方が多いようです。それは女が人間社会の基礎をなし、女にとって母性愛が全てであると言っても過言ではないからです。
 女の習性(母性愛)が正しく身についていないときは、家族や子度に与える悪影響が強くなります。

 男の本能は、自分の妻が別の男の子供を産むことを絶対に許しません。妊娠しなくてもその行為をするだけでも同様です。もしも妻が不倫をしたときは、ほとんどの場合離婚となり、もしも元の鞘に収まったとしても、一生しこりが残るのが普通のようであります。
 それは男が自分の縄張りを別の男に乗っ取られ、面目を失い、男として最悪のみじめな状態になるからでしょう。

 妻が処女で結婚したときは、完全独占ということになり、男にとってはこれ以上幸福なことはないでしょう。処女で結婚する女は10%程度であるということですが、妻が処女であることが家族円満の保証にはならず、離婚する例もよく見られます。
 男は自分から別れた女に対してでもいつまでも未練を残すことが多いようですが、女は恋人と別れて、別に好きになった男と結婚したときは、以前の彼氏をすっぱりと忘れるようで、処女でないからと言ってこだわる必要はないようです。
 女は母性愛を発揮するために結婚しますから、昔の彼氏に気をひかれていては母性愛に集中できなくなります。しかし、習性が正しく身についていない女は話は別で、以前の彼氏とも関係を持ち続ける例も小説などによく出てきますが、それは稀な事実であるから小説の材料になるのでしょう。現実において何人もの男を変えている女をまれに見ますが、その悪癖が子供に遺伝しているように感じられます。
 女に対して男はできるだけ多くの子孫を残したいという本能を持っていますから、あらゆる女に興味を持ち、別れた女にも未練を残すことになるのでしょう。しかし、習性であるボス的家族愛を正しく身に着けた男は決して家族を見捨てることはありません。

 女は妻子を命がけで守ってくれる男を求めていますから、夫が別の女に気を移し、貢いだり、守ったりすることを絶対に許しません。もしも夫が浮気をしたときは、妻の第六感によって察知され、大騒動となりますが、夫が土下座をして謝り、二度としないことを誓えば、許されることが多いようです。しかし、度重なれば保証はありません。
 国によっては一夫多妻の習慣や制度のあるところがありますが、そのような国の妻は、夫が4人の妻を持てば、愛情は4分の1になる。と言っていましたが、なるほどうまいこと言うものです。

 男の本能は、自分の子孫を残すことにありますから、願わくば世界中の女に自分の子供を産ませたいという、妻の前では言えない野生的な一面(本能)をどこかに持っていると言えます。
 従って男は浮気っぽいのです。別の項目で述べるように、男としての習性が正しく身についていない男は妻子を忘れ別の女にうつつを抜かし、離婚する例もあります。しかし、正しく習性を身に着けた殆どの男は妻以外の女に溺れることなく、たとえ浮気をしても家族へ戻ります。
 正しく習性が身についていない男は、育った環境や習慣が悪く、過保護でわがままに育った男に多いように思われます。
 悪習性を持つ男でなくても、ほとんどの男には幾分かの浮気心があるもので、それを物語っているのが、ネオン街をさまよっているのは、ほとんど男であることです。男はネオン街で、本能の抑えきれない欲求を癒しているのです。
 ネオン街で女を見かけることはありますが、少数であり、特殊な場合を除き、女が慰(なぐさ)めのために男を求めてネオン街をさまよっていることはありません。お付き合いや年寄り仲間の暇つぶしが多いようで、男とは目的が異なります。
 ネオン街には居酒屋やスナック、クラブ、ソープランドなどが並んでいますが、スナックやクラブは中年男の心の慰(なぐさ)めどころで、浮気心の癒し所となっています。ソープランドは通称ヌキヤと呼ばれていますが、若い男のたまったものをヌクことが目的なのでしょう。
 男は、ネオン街で酒と薄暗い店内で理性を失い、女性の甘い言葉で本能を癒すのです。この男の本能による遊びは、抑えようのないもので、ほとんどの妻は、夫のほどほどの遊びを許しています。ある男は、ネオン街へ遊びに出ると、妻から11時に電話がかかってきて帰宅するという事でしたが、笑ってしまいます。
 男にはこうした浮気っぽい一面はありますが、正しく習性を身に着けた男は、決して妻子を見捨てることはありません。

 人間社会では、男が女に支えられているところが大きく、家庭でも、夫は妻に身の回りの世話をしてもらって送り出され、社会に貢献して稼ぎ、家族を養うことができています。人間以外の動物に雌が雄の身の回りの世話をする動物を聞いたことがありません。
 いかに共稼ぎの時代と言えども、夫の稼ぎが重要な役割を果たしているのが普通です。妻の稼ぎが夫より大きいときは夫が肩身の狭い思いをするでしょう。

 オリンピックのアスリートたちの成績を見てもわかるように、男は女に比べて腕力や体力が勝っていますが、それは、男が戦いや物作り、獲物の捕獲等、体力を要することに適していることを意味しています。
 発展途上の国などでは、男は戦いや国創りに明け暮れているところが多く、男が女を守っているのだと、男の力が誇示されており、女の権利が認められず、押さえつけられた状態で、男尊女卑ともいうべき傾向が見られると言えますが、実は、男は女の支えがあって命がけで戦うことができるのです。それで女が男に従って男を支える事を強制されていると言えますが、男の要望通りに従っている女は貴重な存在であり、国の基礎となる縁の下の力持ちであると言えます。こうした女の存在がなければ、発展途上の国は崩壊するかもしれません。従って発展途上国の男尊女卑の傾向を一概に否定することはできないでしょう。

 一方、先進国では、武器の発達や科学の進歩により、高度に分業が進み、経済的にも余裕ができて、男の腕力や体力を必要としなくなったために、男の支配力が弱まると同時に、女が経済力を持つことによって自立し、男の腕力や経済力によって守られる必要性が低くなったので、男が弱くなったと言われています。その結果、婚期が遅くなり、離婚率も高くなって、バランスを崩した家庭が多くなりました。
 世界的なデータを見ると、発展途上国の方が先進国よりも離婚率が低いようですが、これだけを見ると、発展途上国の方が先進国よりも家族が円満に維持されていると言えるでしょう。

 現在は先進国である日本においても、明治初期の発展途上の時代には、妻の不倫に対して、旧刑法(明治13年太政官布告第36号)の第353条において、「夫のある女子が姦通した場合、6か月以上2年以下の重禁錮に処する」とされていました。現代においても、姦通罪の存在する国があると聞いています。
 こうした女を押さえつけるような社会習慣や社会制度は、一見、男尊女卑や女に対する虐待の様に見えますが、真の意味は、男の女に対する甘えであり、女なくては生きてゆけない、また頑張れない男の弱さと共に、女の強さつまり母性愛の尊さを物語っているものであると言えます。

 以上の様にいかなる社会情勢やいかなる時代が来ようとも、人間には男と女が存在し、それが結ばれて家族ができるのですから、男と女(夫婦)はお互いに強く結びついていればいるほど幸福な人生つまり、愛に満ちた生活を送ることができ、夫婦はお互いに独占することによって、未来に対する不安を感じることはないでしょう。

  • 完全な男、完全な女は存在しない

 人間が母親のお腹の中で誕生するときは、全て女であり、そののち男になる者は男に性変換します。つまり、男女ともに同じ体から出来るのです。従って男女ともに異性の情報や要素を体内に持っていると考えられます。全ての人は男女である両親から生まれ、染色体も父母両方から受け継いだものがそれぞれ一対になって体内に存在するのですから、DNAが持つ遺伝情報も男女入り乱れたものであると言えます。従って、完全な男や完全な女は存在しないと考えられ、男には女の要素が幾分残っており、女にも男の要素が幾分存在するのが普通であると考えられます。
 ドミニカ共和国に、生後思春期になって、女から男に性変換する人が何百人と居て、その人たちは、同じ先祖の女性から生まれた人たちであるということですが、この人たちは母親のお腹の中で性変換するべきものが生後思春期になって行われているのですが、体の中に異性の特徴が存在する一つの例であると言えるでしょう。ちなみにこの様に女性から男性になった人が結婚して生まれる子供は、染色体は変化しないので全て女であると言うことです。

 異性の特徴を肉体や精神面に表している男女もありますが、顕著に異性の特徴を表していなくても、全ての男女は異性の特徴を体内に持っているのが普通でありましょう。
 男が女の要素を持っているがゆえに、女の感覚や気持ちがわかるのであり、また逆に女が男の要素を持っているために、男の気持ちや感情を察知出来るのです。
 もしも男女ともに、異性の要素を全く持っていなければ、男女が結びつくことはできないでしょう。

 同性愛者の様に明らかに種の保存、子孫繁栄につながらないような性的関係であっても、性欲と言う本能は働いており、異性に対す魅力と同様の魅力を同性に対して感じているのであって、それで性欲つまり本能的欲望が満たされているのです。
 人間以外の動物では、人間の様に同性が結ばれてカップルとなる話は聞いたことはありませんが、チンパンジーやボノボなどの様に、当然の様に同性の間で性欲を満たしているものもたくさんいます。
 同性が本能で結ばれた後、同性の夫婦では子供が生まれないために、養子を迎える例も少なくないようです。ここにも家族愛(母性愛とボス的家族愛)が同性の間にも存在しています。

 自分の中に異性に対する感受性を持っていないと、男は女の、女は男の気持ちや感情を知ることができないはずです。人間がカラスを見ても性的欲望を感じない様に。

第三話 心の世界

  • 【総論】形なく存在する心

 「あなたには心がありますか?」と聞くと全ての人は「ある」と答えます。そして、「見たことがありますか?」と聞くと全ての人は「ない」と答えます。つまり心は確かに存在するのですが、見えない存在であり、形なく存在しているのです。
 心は体全体の情報と脳によって作られ、無形のものとして体を離れず存在しています。昔の哲学者が言うように、どこかの内臓に存在するものではなく、体内における無形つまり無限の存在であり、人格や人柄を形成する基にもなっています。
 心理学では、人の行動や現象を基に、「心」をあらゆる角度から研究していますが、ジークムント・フロイントに端を発する深層心理の「心」に対するとらえ方が最も心を直接的に理解した解釈ではないかと考えます。なぜなら、「心」は無形のものであり、無意識のうちに存在するものであるからです。

 形なく存在している心に似たものに、「魂」があります。
 宗教の世界では、魂は霊魂や魂魄(こんぱく)と共に、複雑な解釈がなされていますが、大方は形のないものと解釈されているようです。
 魂から心が生まれるとか、人間が死ぬと体重が少し軽くなる、それは魂が抜けるからであるという説があるようです。しかし、重量があるならば、形があり、見たり触れたりできるはずですが、いまだに見た人も捕まえた人もいません。
 心も魂も形なく存在するものであることは、両者とも体内において、無形、つまり、無限の存在であるといえます。形のないものつまり無限のものが体内に二つ存在することは不自然であります。したがって、心と魂は同じものであり、捕らえ方やその時の状況や判断によって異なって解釈されるものと思われます。
 例えば、日常生活の中では、気軽に用いることのできる「心」という言葉を用い、宗教的な話や命に係わる現象、人生にかかわる重大な話の中では「魂」と表現します。例えば、放心状態の人を見たときは「魂が抜けたように」と言いますが、「心が抜けたように」とは言いません。また、精神病の人を昔は「狐狸妖怪に魂を乗っ取られた」とか「狐狸妖怪の魂が乗り移った」と言いますが、「心を乗っ取られた」とは言いません。つまり、真に迫った状態の時に「魂」と表現し、日常生活では「心」と表現されているように思われます。だから、「魂」の方が重要度が高く、重みがあるように思われるので、「魂から心が生まれた」と感じられ、多くの宗教ではそのように言われているのではないでしょうか。
 また、心や魂に似た言葉に「精神」がありますが、これも心や魂と同じように、その時の状況によって使い分けられているものと考えます。「スポーツ精神」と言いますが、「スポーツ心」とは言いません。
 人間社会において、無形に存在するものは全て心に由来しているものであると考えます。例えば、約束や契約、時間、お金、信用、未来、希望や夢などは全てそれであると言えます。

  • 人の体と心

 心は、全身と脳の間で、神経を通じて複雑な情報のやり取りがあって形成されていることは想像できますが、全てを知ることは不可能であります。
 心の重要な部分は、理性、感情、人間関係であると思われますが、特に、これらの心の重要な要素とかかわりが深いと思われる身体的部位は、頭部、胸部、腹部ではないかと思われます。

 先ず、頭部では、脳自身が遺伝子に組み込まれている情報や過去の経験から蓄積、保存されている情報に基づいて、主に脳のみによって判断されている「理性」の領域があります。
 理性は、善悪、損得、上下、危険安全等と言った、左右対称の判断をしています。「頭のてっぺんでしかものを考えない」と言われている人は、理屈っぽくて行動力に欠けるところがあるのは、左右対称の判断に偏っているからであると言えます。
 ちなみに、理性は麻薬などの薬物や、暗闇、そして本能(性欲、恋愛)に弱いとされています。
 麻薬などの薬物は一般的に使用は禁止されていますが、お酒(エタノール)は一般に使用されていますが、これも薬物の一種であり、飲みすぎると前後不覚になって理性つまり、善悪などの左右対称の判断力を失い、正常な行動ができなくなります。
 昔は照明設備が不備であるために、闇夜で、深夜になると外は真っ暗闇であったために、方向を失い、溝や野壺に落ちて、狐狸妖怪に化かされたと言うことが多くあったようですが、人間の目は真っ暗闇の中では、まっすぐ歩くことができず、右か左に曲がってしまい、当時は道路も整備されておらず、そのような事故に遭遇することが多かったようです。
 昼間でも、目をつぶって歩いてみると、確かにまっすぐ歩くことは難しく、右か左に偏って進むことを経験することができます。
 もう一つの闇は、夜の暗闇ではなく、本能つまり性欲で、「恋は盲目」と言いますが、これもよく知られた理性を失う闇の世界です。
 以上の理性を失う三大要素をうまく活用している商売があります。それはスナックやクラブなどのネオン街で、ここでは店の中をうす暗くしてお客を不安にし、お酒を飲ませて理性を失わせ、美しいホステスさんの、本能的魅力である色気と、女の習性である母性愛を駆使して、客をもぬけの殻にし、楽しませてくれるのです。

 次に、心にかかわりの深い部位は胸部で、脳と情報をやり取りして判断している領域です。うれしい、悲しい、美しい、驚き等と言った感情的、情緒的な情報をつかさどっています。
 感激すると胸が熱くなることもあり、驚くと心臓がドキドキするのも感情的な情報を胸部でとらえ、信号を脳へ送っていることを示していると言えます。
 しかし、胸部で感情的、情緒的な刺激を受けても、それを即行動に移すことはできないのが胸部の特徴であると言えます。
 胸部で感じたことを行動に移すには、腹部との連動が必要であるようです。

 第三は、最も重要であると考えられる身体的部位は腹部で、人間関係及び行動力、実行力の源となる、重要な役割を果たしている部位であります。
 脳は、腹部と情報をやり取りしながら、他人の状況や心を察知して、自分の置かれている立場を認識して、とるべき行動を指示しているのです。
 昔から、人間関係や対人関係を表す言葉に、「腹からの付き合い」とか、「腹を割って話そう」「腹が立つ」「腹を決める」「腹を括れ」「腹が座る」「腹芸」などという言葉があり、また、昔の侍は、切腹して自分の腹の中を見せ、誠意を示そうとしました。このように脳に送られる腹部の情報は、人間関係と実行力に欠かせない情報であると言えます。
 腹部には脳に次ぐ多くの神経が集中しており、脳と緊密に情報のやり取りをしながら、精神面つまり心に対して重要な役割を果たしている部位であります。
 中年になると腹が出てきますが、それは中年になると、人間関係が大事で、実行力を必要とする、人生で最も充実した年代になり、それに備えて、貫禄(かんろく)が身についてくるものと思われます。
 ある中国人漢方医の話によると、中年期に太って、腹が出てくるのは生活が安定し、ゆとりが出てくるからである。ということですが、少し関係があるかもしれません。
 頭でいくら考えていても善悪や損得、上下、危険安全という左右対称の判断しか出来ず、行動に移すことができません。また、胸でいくら感激していても、即行動や実行に移す原動力にはなりません。腹部において腹を決めて初めて行動に移し実行し、実績を作り、そして成功につなげることができるのです。

 中年になっても、極端に痩せた人は、「周囲の人が見えず、自分しか見えない」とされていますが、確かに人間関係に関する判断が苦手であることがわかります。
 数少ない観察例ではありますが、20年に亙る一人の男性とその他数人の例によると、極端に痩せた、腹部の未発達な人には、次のような傾向がみられます。
 周りの人が見えない、という体質的特質から、周囲の人が自分に何を求めているかよく理解できず、相手が困るであろうことを予測できないために、約束をしても放置しがちであり、なんでも簡単に引き受けるが、行き詰まると放置し、無責任となり、「受取早の変改早」となる。
 また、自分しか見えないことから、人一倍自惚れ(うぬぼれ)が強く、目下の人には、厳しく偉そうに言うが自分はそれを守らない傾向がある。その反面、上の人には従順であるように見えるが、報告を怠る。
 自分の立場をよく理解しないために、責任感に乏しく、同じ失敗を繰り返すことが多く、案外平気であるり、「喉元過ぎれば熱さ忘れる」と言った傾向がある。
 上記のような傾向を見ると、このような人は悪い人で無能力な人の様に感じますが、故意にこのような行為をしているのではなく、腹部の神経が未発達であるという、体質的特質によって無意識のうちに行っているもので、あまり自覚がないようにも感じられます。
 従って、悪意のある悪い人でも無能力な人でもありません。このような人は真面目で、労をいとわず熱心に物事を行う傾向があり、適材適所に当たれば、優れた能力を発揮している人が多いように思われます。

  • 人間の習性と自殺

 人間以外の動物(一般動物)は自殺しないのに、どうして人間は自殺するのでしょうか。それは人間と人間以外の動物(一般動物)の習性に違いがあるかです。
 人間は人間特有の習性によって、未来という逃れることのできない時間的空間に生きているから、未来に絶望したときは自殺するのです。人間にとって未来は未知の空間であり、将来幸福になるか不幸になるか誰にもわかりません。だから神仏に頼ろうとするのですが、自殺する人は、今現在の苦しみに耐えられなくなって諦め(あきらめ)ているように見えますが、実は、未来に絶望するから自殺するのです。

 一般的に自殺の原因とされているのは、順に健康問題、経済問題、家庭問題、であるとされています。
健康問題は、状況によっては忍び難いこともあると考えられます。従って、オランダやスペイン、カナダ、ルクセンブルク、ベルギー、コロンビア、等10か国余の国では、厳しい条件を設けた上で、安楽死を認めていると聞きます。
 経済問題は、いわゆるお金であり、人間の衣食住を賄うために必要なものですから、なくなると生きてゆくことができなくなります。一般動物にとっての餌場の確保と同じです。
 また家族問題は、家族の絆が崩壊していることが原因で自殺した事を意味するものであり、人間の習性である、妻(母)の母性愛と夫(父)のボス的家族愛が欠如した結果生じるものと思われます。
 上記3つの自殺原因は、単独にかつ明確に分類されるものでなく、相乗的に作用して自殺原因となっていることが容易に判断できます。

 自殺に色々な原因があるにしても、客観的に総合して見ると、自殺は未来に生きてゆく希望を持てず、未来に絶望したことによるものであります。
 未来という時間的空間を持って生きているのは、人間だけでありますが、その未来は次の様にしてできてきたものであります。
 人間は家族を作りますが、他の動物の家族と異なるところは、人間の家族は、集団つまり人間社会の構成単位となっていることであります。そして家族が存在するがゆえに、分業を可能にし、分業によって人間社会は高度に発展したのですが、分業することから約束や契約が必要となり、約束することから時間が生まれ、そして過去、現在、未来という時間的空間を持つようになったのです。詳しくは別の章をご参照ください。
 人間にとっての未来は、不安や恐怖の源であると同時に、反対に、成功や幸福を得る可能性もあります。その中で、自殺する人は、未来に幸福を得ることができないと諦めた人でありましょう。

 自殺する人が将来に希望を持てなくなる根本原因は、通常の場合、人間の最も基本的な習性である集団動物としての仲間から外れることにあるのでしょう。集団動物には草食動物等たくさん存在しますが、草食動物が集団から外れると一匹では生きられず、捕食動物の餌食となるのと同じように、人間も集団からのけ者にされると苦労して生きてゆかねばなりません。
 草食動物が集団を作るのは、餌場の確保と捕食動物から身を守るためですが、人間には天敵がいませんから身を守るために集団を作るのではなく、自分の能力を発揮し、集団組織の中心的な存在になれるであろうと思う、自己中心欲によって集まり、集団を形成しているのです。
 そして人間は、健康に生きるだけでは満足せず、幸福になりたいと願い、愛に満ちた生活を求めます。その愛をかなえてくれるのが家族です。妻(母)の母性愛と、夫(父)のボス的家族愛がそれをかなえてくれるのです。
 人間はだれ一人として、他人のために生まれてくる人はいません。すべて自分のために生きているのです。その中で、他人のために行った行為を自分の事の様に喜べるならば、それが真の愛であると言えるでしょう。愛という言葉がたくさんありますが、恋愛や愛国心、愛社心などという愛は全て自分のための愛であり真の愛ではありません。しかし、母性愛とボス的家族愛は、真の愛であり、習性を正しく身に着けていればその愛を発揮することができます。妻(母)は母性愛で子供を命がけで守り、その母性愛の延長で、夫の身の回りの世話をし、夫を立てて社会に送り出し、夫は社会に貢献して衣食住の糧(かて)を得るとともに、あらゆる危険から命がけで妻子を守ります。
 一般動物でも、そうした愛を備えており、人間以上に例外なく母性愛を発揮しており、ボスとなった動物は命がけで群れを守ります。
 つまり、人間の家族は習性によって、真の愛で守られており、幸福の源となっています。従って、少なくとも家族に守られていれば自殺には至らないのが普通です。

 「今」は確かに存在し、「今」が未来につながっています。未来に幸福を得るためには、「今」が重要な役割を果たしているのです。将来西へ行こうと思えば、「今」西向かなくてはいけません。将来、目的を果たしたいと思えば、「今」その目的に向かって実行し、その実行を続けて、実績を作り、、実績をさらに積み重ねればきっと目的に到達し、成功を得るに違いありません。
 そして目的を達成すれば、この自然豊かな地球で、万物の霊長たる人間として生まれ存在することを千載一遇の恵みと考え、幸福感を感じるに違いありません。

 特に現在は高齢社会であり、間もなく平均寿命90歳の時代が来るでしょう。人間の前半生は子育てに奔走し、夢中に生きなければなりません。子育てが終わった後半の人生は自由であります。つまり、この老後の人生をいかに過ごすかが大きな課題となります。この時こそ自由な人生を健康で幸福に過ごしたいものです。
 これからの世の中は、老後の人生によって幸福な人生であったかどうかを判断する時代であります。本当の天国はそこにあるのではないでしょうか。
老後に豊かに生きるためには、若いときから老後の生活を豊かにするために準備しなければなりません。不確実な死後の天国を望むよりも、目の前にある老後の確実な天国を目指して生きることが大切です。老後の生活こそがその人の人生の幸不幸を決めるのではないでしょうか。
 幸福な一生を送れるかどうかは全て「今」にあるのです。

  • 時間は心の中にあって実在しない

 われわれは、過去、現在、未来と言った時間的空間の中で常に生活を営んでいますが、これらの時間は実際に存在しているのでしょうか。過去はすでに過ぎ去った時間であり、存在していません。そして未来もまだ到来してないから実在しません。
 現在は、過去と未来の狭間にあり、実在しますが、過去も未来も、一億分の一秒よりも、もっと瞬時の後先に迫っており、現在つまり「今」は確かに存在していますが、位置があって大きさのない「点」のような存在であり、実在しているとは言えない状態です。
 現実に、目の前で繰り広げられている世界は、確かに実在しているのですが、それは、位置があって大きさのない「点」が連続して線となるように、「今」が連続しているがゆえに目に見える状態になっているのです。人が死ぬとき、そこで時間も現実世界も消えます。
 過去と未来は、実在しておらず、今も無に等しいのですから、時間は実在していないことになります。それでは時間はどうしてできたのでしょう。それは、人間の習性によって、分業の社会を築いたことから、約束や契約をする必要性が生じ、時間が生まれたのです。時間が存在しない約束はありません。約束は心の中に無形に存在するものでありますから、当然時間も無形であり実在しないものであることがわかります。
 人間以外の一般動物は、約束をしません。だから時間を持ちません。一般動物は、長い自然淘汰の歴史の中で培ってきた、遺伝子に組み込まれた習性と、今まで生きてきた過去の経験の積み重ねによって、今生きているのです。
 一般動物には時間の観念がありませんから、未来は存在しないのです。一般動物の中には、餌を土の中に埋めたり、木の枝につるして保存するものが居ますが、それは将来を考えて行っているのではなく、習性として遺伝子に組み込まれた行動なのです。
 一般動物は、今の連続の中で生き続けるのです。だから一般動物は未来を意識せず、未来に不安を持たないために、自殺もしないのです。それは人間より幸せではないでしょうか。

 もしも、人間が時間から解放されれば幸福感を感じることができるでしょう。時間から解放されることは全ての約束から解放され、最も不安な時間的空間である、未知な未来を忘れさせてくれることにもなるからです。
 広大な海や山の景色を見る時、心の安らぎを感じるのは、時間や約束の拘束を忘れさせてくれ、未来の不安が消えるからではないでしょうか。

  • 人間の集団組織は心の引力が作る球体である

 人間は、集団動物と言う基本的な習性によって、企業、政党、スポーツ団体、宗教団体等々の様に、目的を持った集団組織を作って活動し、分業します。そして、その組織には必ず中核となる人物がいて、それを取り巻くいわゆる幹部が形成され、更に重要度の高い人物から順に、中心から外に向かって広がり組織が球形に形成されてゆきます。こうして、人の心が引き合って組織ができてゆくのですが、その背景には自己中心欲という組織形成の原動力となっている人間の習性が存在して、その自己中心欲によって、自分がその組織で能力を発揮できると考えて、組織に参加するのです。

 人間の組織は、企業の組織図等によく見るようなピラミッド型に描かれますが、それは組織の一部(8分の1)しか現わしていません。例えば、球形の西瓜を八つに切るとピラミッド型となります。そして西瓜の中心部分が頂点となりますが、それは人間が作る球体組織の中心に位置します。
 つまり、企業の社長は、ピラミッドの頂点ではなく、球体組織の中心人物であって、全ての人と心と心で引き合って会社組織ができているのです。他の種類の組織も同様です。
 ピラミッド型の組織図を見ると、頂点のボスが全てを支配している上下関係のイメージとなりますが、球体組織の中心であると理解すれば、組織は決して上下関係ではなく、心の引力によって引き合い、全員でその組織を作り守っているのであることが理解できます。

 人間の組織は中心から出来ているのですが、地球も人間の組織と同じように中心から出来ています。説によると地球は46億年前に宇宙の塵が集まってぐるぐる回りながら冷え固まってできたとされていますが、現在の地球は、中心に極めて質量の大きなコアがあって、その外側に密度の高い鉱石などからなるマントル層があり、その外側が地殻でありますが、中心に行くほど質量の大きな物質から出来ており、万有引力によって物質同士が引き合い、大きな質量の物質から順に中心に引き寄せられているのです。
 天体は万有引力によって物質が球形に固まりますが、人間の組織は、物質(人体)ではなく、心によって引き合い、心の球体組織を作っています。そして万有引力も心も無形であることを考えると、何か不思議な共通性を感じます。
 小さな天体は未熟であり球体になり切れないようですが、人間の組織も心のつながりが弱く、未熟だと組織が完成せず崩壊しますがその点も天体と人間の組織は似ています。

 人間社会は、目的を持った多くの集団組織によって分業が成り立っていますが、その目的を持った組織を支えているのが、家族であります。家族そのものは目的を持っていませんが、その家族の一員又は全員が目的を持った組織に所属することによって家族の目的を果たしていると言えます。つまり、分業の人間社会を支えているのが家族なのです。
 特に、企業は家族を円満に維持するための衣食住を賄って(まかなって)いる重要な存在でありますから、所属している企業の盛衰によって、家族の生活が左右され、また家族が円満で豊かであれば、心身ともに健康を保ち、企業の繁栄に貢献できることになります。つまり、家族と企業は車の両輪のようなものであり、どちらが崩れても双方が成り立たないことになります。

 企業の組織は、経営者と社員から構成されており、両者がなければ企業は成り立ちません。従って、経営者と社員はタイアップの関係にあるのです。つまり、経営者と社員は、支配関係ではなく対等なのです。この本質をとらえて団体交渉権を主張し行動するのが労働組合であると言えます。
 ところが、全ての企業には、上司と部下の関係が存在し、そこには、読んで字のごとく、上下関係が存在し、支配関係が生じます。
 人は、自分が所属しようとする組織の目的や内容を見て、自分がその組織に参加すれば、能力を発揮でき、中心的存在になれるであろうという、自己中心欲に基づいて参加するのです。つまり自己中心欲が原動力となって組織が形成されるのです。
 こうして人間の組織はできるのですが、先に所属した先輩が幅を利かし、後輩は先輩に対して遠慮するのが普通で、そうした人間関係に基づいて、大きな組織ではいろいろな部署ができて、そこに責任者が必要となり、自然と上司と部下の関係ができます。

 自分が能力を発揮し、貴重な中心的存在になれるであろうという自己中心欲に基づいて参加した社員は、一人前になっても、上司の支配のもとに中心的存在に成れないことが多く、その希望が阻害されることとなり、不満が募る結果となります。
 社員の不満は普通、経営者に向けられるのではなく、上司に向けられている傾向がありますが、それはその支配関係によって社員の自己中心欲が阻害されるからであります。
 社員は会社の経営に参加し、会社を動かせる立場になりたいと常に願っており、経営者に近づきたいと念じているのですが、上司によって阻(はば)まれているために、不満が生じるのです。
 会社は歴史と共に成長し、規模が大きくなり、知名度が高くなるために、後から入社する人ほど優秀な人が多くなる傾向があります。従って、古くからいる上司が無能な人であれば、それだけ後輩の不満が募ることになるために、古くからいる上司は自己啓発をして成長しなければなりません。


      

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